上川幼稚園、70年以上の歴史に幕。
~それでも変わらない「子どもの笑顔」が未来をつなぐ~
昭和29年(1954年)の創立以来、上川町の子どもたちを育み、地域とともに歩んできた「上川幼稚園」が、このたび閉園を迎えました。
70年以上もの長きにわたって築かれた歴史と想いは、これからどのように受け継がれていくのでしょうか。
本記事では、上川幼稚園のあゆみや功績、そして“子どもの笑顔”を大切にしてきた教育の精神が、どのようなかたちで次世代にバトンタッチされるのかをお伝えします。
上川幼稚園のあゆみと閉園に至るまで
昭和29年4月、まだ戦後の混乱が色濃く残る時代に「大聖寺付属幼稚園」として産声をあげた上川幼稚園(当時)。
幼稚園が少なかった頃から地域の方々や保護者と力を合わせ、子どもたちの“はじめの一歩”を守る場として機能してきました。
創立から10年ほど経った昭和30~40年代には、園児数が120名を超えるなど活気にあふれ、「おサルの幼稚園」と呼ばれるほどユニークな環境でも多くの笑顔が生まれます。
昭和46年には学校法人「上川学園」として認可され、音楽教室や家庭教育学級を導入するなど、“情緒教育の充実”をキーワードにした取り組みを次々と実施。
保護者とともに学ぶ姿勢やコミュニティとの連携が評価され、地域の幼児教育の中心的存在となりました。
昭和58年の創立30周年を迎えるころには、『カワイ体育教室』や『カワイ音楽教室』の導入、園舎裏の「第二園庭」整備など、独自の教育活動がますます充実。
一方で、少子化や地域再編の波が少しずつ押し寄せる中でも、上川幼稚園は「三つのおやくそく」(「うそを言わない」「お家の人の言うことをよくきく」「友だちとなかよくあそぶ」)を軸に、一人ひとりを大切にする保育を続けていきます。
平成に入ると、地域開放型の「ティンクルランド」や「コアラちゃん教室」の開設、日本防火協会から寄贈された鼓笛隊の結成、土曜保育「遊びの広場」の開始など、新しい生活様式にも柔軟に対応。
平成15年には開園50周年を迎え、当時の保護者を中心に記念式典を実施し、園の歴史と成長をともに祝いました。
しかし、少子高齢化が進行する中、町の行政や関係者と連携した上で教育環境の再編を考えなくてはならない状況に。
こうした背景から、新たに認定こども園「ここふれ」の準備が進められ、70年以上の歴史をもつ上川幼稚園は閉園の決断を下すことになったのです。
受け継がれる教育の精神と未来へのバトンタッチ
上川幼稚園が閉園を迎えても、その精神や功績は多くの形で受け継がれます。
これまでの歴史を支えてきたのは、戦後の苦しい時代から変わらない“地域との連携”と“子どもの笑顔”に寄り添う姿勢。
昭和から平成、令和へ――園の形が移り変わっても、人と人とのあたたかいつながりが上川町を元気づけてきました。
大きな転機のひとつとなったのが、新しい認定こども園「ここふれ」へのバトンタッチです。
10年に及ぶ準備期間を経て、幼稚園という形式から少子化に対応する新しい教育施設へ移行することで、町の子どもたちにより充実した学びの環境を提供できるようになると期待されています。
上川幼稚園で築かれた「三つのおやくそく」の精神も、地域や卒園生、そして保護者の心に深く根づいており、子どもたちが大人になっても忘れられない大切なルールとして語り継がれているのです。
実際、世界で活躍するスキージャンプ選手・高梨沙羅さんをはじめ、「幼稚園で過ごした時間が原点だった」と話す卒園生も多数存在します。
令和の時代に入り、伊藤聖健(せいけん)園長による“体験や経験こそが大切”という方針が大きな柱となり、親子で参加できる様々なワークショップを企画し続けてきた上川幼稚園。
その取り組みは少子化が進む現在でも、子どもたちの笑顔が地域をつなぐ力になることを証明し、未来への希望を示しているといえるでしょう。
おわりに
昭和29年に創立された上川幼稚園は、70年以上にわたり地域の子どもたちの成長を見守り、
一人ひとりの心を大切にする保育を実践してきました。
閉園を迎えた今もなお、その功績や教育理念は多くの卒園生・保護者・町民の心に刻まれています。
幼稚園という形は変わるものの、その足跡が示す“あたたかい絆”や“子どもの笑顔を支える大切さ”は、
これからも認定こども園「ここふれ」をはじめとする新しいステージで生き続けることでしょう。
過去から受け継がれてきた想いを胸に、上川町の教育は次の世代へと歩み出します。
ひとつの幼稚園の閉園という節目を通じて、私たちが改めて感じるのは、
“子どもたちの笑顔はいつでもまちを照らす原動力である”ということ。
その灯火が絶えないよう、地域全体で学びの場を守り続けていく――
それこそが、上川幼稚園が残したかけがえのない功績ではないでしょうか。
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